「人間さん、良い音を出すためにはねぇ、根っこから変えていかないと意味がないのよ」
昔、猫太郎がこんなことを言っていた。
例えば、エレキギターで良い音を出したければ、奏者→楽器→シールド→エフェクター→アンプの順番で、よりよいものへと変えるのが効果的、という話である。
どのようなシチュエーションだったかは忘れたが、「なるほどな」と思ったのでよく覚えている。
根っこが腐っていては、美しい花は咲かないのである。
……がしかし、「作品」を制作する上では、実はこの理論は成立しなかったりもする。
今の時代は、根っこが腐っていようが絡まっていようが、デジタル技術を駆使すれば、それなりに美しい花が咲いているように見せることができてしまうからだ。
そしてそれを見た人間は、花があたかも「美しい茎や根や土台」を持つかのように錯覚する。実際にはそれが、継ぎ接ぎで作られた「見せかけの花」だとしても、「見えない部分」を脳が勝手に補ってしまうからである。
逆に、映像作品の背景を作るときなどは、この錯覚をうまく利用する。
ドラマ撮影などで「ベニヤ板」を使いセットを作っているのを見たことがある人も多いかと思うが、ああして「カメラに映る部分」だけを精巧に作り込めば、それを見た人の脳は「カメラに見えていない部分」を勝手に想像し、補完するのである。
10のものを作るだけで、100あるように錯覚させる。
美しい花弁を作り、茎や根や大地、あるいはその花が咲くまでのストーリーを「想像」させるのが、「作品制作」なのである。
ただ、こうして作り上げた作品はあくまで「虚構」であるので、中身が薄っぺらければ薄っぺらいほど、どこかでボロがでて、それによって築き上げてきたものもやがて崩壊する。
例えば、歌手が生放送で歌を披露してボロボロで叩かれたりすることがよくあるが、それがまさにそうだ。デジタル技術を駆使して「最高の歌声」を作ったところで、歌手としてのレベルが上がるわけでも、人として成長するわけでもないのである。
美しい花を見た人々は、その花の見えない部分を脳内で無意識のうちに想像し補完する。そしてそれが事実だと思い込むので、そうではない「現実」を見た時に「騙された」と感じる。
人々の中でその花は完璧な存在であり、根が腐っていることなど許されないのだ。
そして人々は、「この花は偽物だ」と糾弾し、新しい花を探して彷徨う。私たちはそれを繰り返し、生きている。
我々が作る作品は、虚構だろうか?それとも本物だろうか?
それを判断するのは、これからの作品を見る視聴者だ。
そんなことを考えながら、今日も制作を進める。



